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私のパソコン履歴書~4代目Contura 4/25C~windowsが欲しい!

Contura4代目>>>PCデータ
機種名:Compaq Contura 4/25C
使用期間:1992~1996
イメージキャラ:なし
購入価格:198000円
OS:Windows3.1
CPU:i486SX 25MHz
メモリ:4MB
HD:210MB
備考:A4ノート

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 DynaBookでそれなりに満足したPCライフを送っていた私ですが、1992年頃日本に上陸したwindowsというOSが気になっていました。また、まだ高かったですがカラー液晶のノートPCが手の届く値段になってきていました。そして私の学生生活も終わろうとしていました。

 大学受験のとき、私は情報工学系か化学系どちらかに入ろうと思っていました。前者はこれからはコンピュータの時代が来るというものから、後者は好きだった化学と実験から志望したものです。結局、後者になったのは情報工学系の学科が少なく難しかったからで、二本立てで受験したものの受かったのは後者だけだったからです。
 4年たって就職に際しても、コンピュータ時代の到来は間違いないものと私は思っていました。化学系の学科を出ていたので、純粋な化学系の会社でもいいかなとも思いましたが第一志望はSE。この頃はバブルの余韻がまだ残っていました。翌年ぐらいから就職氷河期となるのですが楽が出来て給料のいい会社に入りたい!という風潮が学生の間にはまだ色濃く残っていました。従って頭使いそうなSEという職業はあまり人気が無かったのです。というわけで、私はあまり競争もなく今度は希望通りに化学系のSE会社に入ることになるのです。

 一気に就職まで話が行ってしまいましたが、その前段としてwindowsパソコンの話をしましょう。就職活動をしながら、どんな会社に入ろうがパソコンは必要だな、と私は思っていました。そしてwindowsPCというものを店頭で見て、これからは"windows"だと思いました。当時はまだwindowsはスタンダードではなく、MACもあったし、その他のOS、OS2とかなんたらかんたらもありました。その中で何故windowsが優れていたかと言うとそれはデータやソフトの互換性でした。Windowsはメーカー互換のあるMS-DOSをベースとしていました。メーカーの縛りはなく、windowsという基本ソフト(OS)さえ入っていればメーカーも機種も関係ありません。唯一NECだけは独自の謎チューニングをしたPC-98windowsというのを使っていて互換性を保証していませんでしたが(^^;
 それまでのパソコンというのは何年か使うと陳腐化し、データも一緒に使えなくなってしまうものでした。新しいPCを買うときは前のデータともソフトともバイバイという世界だったのですが、windowsならそんなことにはならなそう。というわけでどんな会社に入ろうが、多少高かろうが今後を考えればwindowsパソコンが欲しい!と思ったのです。

 というわけで例のごとく、秋葉原を物色する日々を送っていた私。この当時はあのオウム真理教が裏で経営していた”マハポーシャ”が秋葉原にはありました。”マーハポシャポシャマハポーシャ!安い!速い!”などと数人の若者がパソコン型の帽子をかぶり、街頭でチラシを配っていて、私もこのチラシを時々受け取っていました。私含めオウム心理教がマハポーシャだとは露知らず。実は告白しますが、私もマハポーシャのパソコンを買う直前まで行ったことがあるのです(^^; 確か小型のスーパスリムサブノートというノートPCが白黒液晶でしたが168000円ぐらいでした。現金を握りしめてエレベータを上がり、まんじゅうみたいな顔したメガネのお姉さんにチラシを指差し”これください!”と私は言いました。ところが彼女は間髪入れず”売り切れです!”と言い、別のPCをすすめるのです。なんだあのPCは客寄せなのか!? 他のPCには興味ないし、なんか雰囲気も怪しげで信用できないな、と感じたので結局マハポーシャには二度と行きませんでした。それからしばらくしてあのオウム騒動が起こったわけです。しかし、修行でPCつくっていたわけですから、同じ性能の他メーカーと比較して安かったわけです(^^;; マハポーシャのBBSにも一度接続したことがあるのですが不思議なクレクレタコラみたいなアスキーアートが出現し、何かゾゾッとして慌てて切断したのを覚えています。第六感がマハポーシャに近づくな、と訴えていたのかもね(^^;
 でもって結局買ったのはcompaqのContura 4/25CというカラーのノートPCでした。”こんぱっく”なんてメーカーはその頃知らなかったのですが、でかい米国メーカーのようだし何しろカラーのノートが198000円!という安さ。この値段は現在まで含め、私が購入した最も高額なパソコンとなるのですが、当時は高いとは思いませんでした。あまりにあちこちうろついていたので、最終的にどこで買ったかは覚えてませんが秋葉原のどっか(T-ZONEだったかも)ということは確かです(^^;
 このパソコンにはおまけでマイクロソフトのワードとエクセルがついていました。ワープロは一太郎、表計算はロータス123がスタンダードだったので、エクセルとかワードはおまけ程度のソフトだったのです。おまけなのでありがたく使わせてもらいましたが、まさかあの使いにくいワードがその後こんなに普及するとは思わなんだ(^^;;
 それまで色のないDynabookをずっと使っていたため、新しいカラーノートはまるで別世界の天国にでも降り立ったかのようでした。買うまでは白黒でもいいかなと思っていた私でしたが、カラーじゃないとやっぱだめだと思ったものです。

 ところでパソコン通信の方は相変わらずwindowsになっても続けていました。ツールはw-termからniftermというシェアウェアの巡回ツールに変更。モデムももっと高速なものを購入し、むしろ私のパソコンライフはパソコン通信を中心にまわりはじめていました。
 パソコン通信への参加の仕方も社会人となり、新たなステージ(謎)を迎えていました。オフ会というものに参加するようになったのです。最初は勇気がいりました。なにしろ文字だけの付き合いの人と会うのですから。当時はデジカメとか携帯なんて便利なものはありません。顔はわからないし、携帯電話で呼び出すこともできません。服装の特徴を連絡したり目印になるものを持って、場所と時間を決め、それらしき人を探し”もしかしてオフ会の方ですか?”と声をかけなくてはいけないのです(^^;;
 私が最初に参加したオフはマリーンズのオフでした。野球の場合は球場という場があります。球場はオフとは関係ない人もたくさんの人が来ている場所なのでオフ会としては参加がしやすいと言えます。書き込んでいるうちに気心が次第に知れてきて、マリーンズのBBS上で第一回のオフを確かキクラゲさんという方が呼びかけました。そして、何度か回を重ねて参加メンバーもボチボチ増えていきました。そうなると、オフ会に参加していない人は話題に加われなくなっていきます。というわけで私もマリンスタジアムにはちょくちょく行っていたのではありますが、そのオフ会メンバー(後に毬印団という名前になる)がいると言う場所に行き、ついにオフ会にカミングアウトしたのです(^^;;
 書き込みでは威勢がいいのに随分静かな人たちだな、と参加して感じました。私もきっと、そのうちの一人なんでしょうが(^^; やはりある程度同質の人たちが集まっていたということなのでしょう。オフ会というのはけっこう居心地の良い場所で、それからもちょくちょく顔を出すようになりました。
 野球でカミングアウトした私は、けっこう気が大きくなり、今度は競馬の方のオフ会にも参加するようになっていました。こちらではむしろ中心メンバー(謎)として活躍するように成長?していきました。その話はもうちょっとあとの時代ですので、次回以降もっと詳しく書きます。お楽しみに(^^;;
 競馬の方は当時PATと言うパソコンでダイヤルアップして馬券を買うシステムがあったため、馬券を買いたいためにパソコンを買ってパソコン通信をはじめ、ついでにニフティものぞいてるという人が大量にいました。そういう人たちはいわゆるパソオタとは違う、普通に近い人たち(謎)でした(^^; そのためか馬系のフォーラムは盛り上がり、フォーラムは分裂してどんどん増えていったのです。
 ちなみにハンドルネームは一番最初から”よこぜ”を使っています。なぜかという由来は”よこぜき”だと座りが悪いので3文字に短縮したというだけです。埼玉によこぜ町があるとは知りませんでした(^^;

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読書な毎日(175)

【ここが違う、ドイツの環境政策】 今泉 みね子
 ドイツのフライブルク在住の著者がドイツの環境政策について書いた本。2003年に出版されたものなので内容はやや古いですが、日本から見るとまだまだかなり先進です。
 日本とドイツというのは似たところがあります。第二次大戦の敗戦国であり、車等の重工業が発展している。そのため車中心の社会である。原発国である。ところが最後の2つに関してはドイツは環境のために政策転換をしたのです。車から公共交通中心へ。原発は順次廃止し、再生可能エネルギー中心へ。それがはっきり現われているのが、CO2排出量の違いです。京都議定書の1990年基準からドイツはマイナス18%。日本は逆に8%も増えてしまっています。チームマイナス6%どころかプラス8%なのです(^^;;
 ドイツの何が違うかと言えば国民の意識もそうなのでしょうが、なんと言っても政治家の意識とその政策が全く違うのです。ドイツはすべての政策が持続性のある社会を営むための方向へ向かっています。ゴミを減らし、できるだけリユースし、化石燃料はできるだけ使わず、自然破壊がされないようにしています。税制的に持続性ある社会のためになるものはインセンティブをつけ、その反対となるもには重い税金を課しているため自然とそういう方向に社会が向かっていくのです。
 いろいろな政策がのっていますが、本著を読むまで知らなかったのが排水税という制度。これは自分の持っている土地で、舗装したりコンクリートで固めてある地面の面積にかかる税金です。コンクリートで固めていない地面は水分を吸収するため排水税がかかりません。舗装面の水は下水に流れ、浄水場が処理しなければなりません。この税制により、舗装面が減ると、浄水場へ流れ込む水は減る一方で地下水は増えるのです。舗装面が少なくなるためヒートアイランドにもなりません。すごいこと考える人がいますね。屋上緑化なんてほとんど役に立たないことやってないで、日本も排水税やってほしいですね。
(★★★☆)

【ドイツビールおいしさの原点】 木村 麻紀
 ドイツのミュンヘン在住の著者が書いたドイツビールについての本。ドイツビールが有名なのは知っていましたが、ドイツ人がこれほどまでにビールにこだわっているとは知りませんでした。
 ドイツビールは麦芽やホップの原料にこだわり、水にこだわり、鮮度にこだわり、地産池消にもこだわっています。そして良い原料や水をつくるために自然環境に十分な配慮をしているのです。
 ドイツではビールというのは麦芽100%のビールことを指しています。これは過去に、原料価格を安くするために麦芽以外を使った質の悪いビールがはびこるようになったため、麦芽100%以外はビールとしないというビール純粋令1516年に出されたそうです。現在は法的効力を失っているものの以来、麦芽100%以外はビールとしないというのがドイツでは常識となっているのです。ビールというのは麦の種類や酵母、製法などで千差万別の味が出せるものなのです。
 ちなみに日本のビールはモルツやエビス、ハートランドなど麦芽100%のものもありますが、大半は米やコーンスターチなどが入っています。本著には日本のビール事情についても書いてあるのですが、これら混ぜ物を入れる理由はやはりコスト要因によるものです。日本の場合は特にビールの税金が高いため、なんとか材料費を安くしようと米やコーンスターチを入れて工夫している。そして大量生産ができる大手メーカーでないとこのコスト負担に耐えられない。そして最近では発泡酒や第三のビールなど、重い税金を逃れるために調味料や香料まで入れて工夫していて、こちらの売り上げが伸びているのが現状ですがこれって良い傾向ではないですね(^^;; 日本ではドイツとは逆においしいまともなビールに重税を課すためにまがいもの天国になってしまっているのです(^^;;
 一方でここ最近、日本でも地ビールが売られるようになっていますが、これは1994年に酒税法の規制が緩和されたことによるものです。それまではビールの最低製造数量基準が2000klだったのが60klに緩和されたのだそうだ。しかし、訳のわからない大手企業優遇の法律があるもんですね。
 ビールのメッカはミュンヘンのようでありますが、各地に地ビールがあり地域の人たちに親しまれています。日本で言うところの日本酒に近いかもしれません。ドイツでのビールの酒税は安く、日本とは逆に小規模ビールメーカーのビールは税金が安いのだそうだ。
 日本ではあまりドイツビールは売っていませんが、これはドイツビールが鮮度や味にこだわっているがためだったんです。大きな工場をつくって世界に輸出しようなんて思っていないから、日本では一部のブランドしか売ってないんですね。ということで本物のドイツビールが飲みたかったらドイツまで行けってことなんですね。
 本著はドイツのビールだけでなくそれに連なる環境への取組み、そして日本のビール事情についてまで言及していてたいへん勉強になりました。ビールが好きな人は是非とも読んでください。エンドウマメ酒なんてきっと飲む気がしなくなることでしょう(^^;
(★★★★)

【原爆の記】 指田 吾一
 元田無市長で現在は亡くなっている(1968年没)著者が生前に書いた手記。40年近く前に自費出版で出版された本著が、復刊しました。原爆の話と自身の戦争体験について書いています。思いつくままに書いてある感じなので、話が前後したり、繰り返し部分もあるのですが、原爆の悲惨さと負けるべくして負けた日本軍の様子がわかります。
 著者は軍医として戦争に携わり、フィリピンなどの南方戦線へボロ船で向かうが、米軍には全く歯が立たずやられっぱなしで九死に一生を得てなんとか逃げ帰ってくる。日本に戻り、軍医の教育にあたっていたところ広島で被爆する。自身も火傷を負うが、医者として奮闘。患者はバタバタ死んでいくが、なす術もない。治療より火葬して埋めるのが主な仕事のようだった。
 広島にいて被爆した医者の話と言うと、映画ヒバクシャの肥田さんがいますが、その話と重なります。同じような地獄絵図。指田さんの方が被爆当時年長で階級も高く実戦経験も積んでいました。また自身の被爆の程度も重度です。それもあって早く亡くなったのかもしれません。自身の実戦体験が書いてある部分の日本軍のボロ負け具合はむしろ読んでいて痛快です(^^; こんな状況で戦争を続けた日本はやはり異常です。
 著者は戦後、故郷の田無に戻り、医者として働き後に田無市長となります。しかし、広島で被爆した話はほとんどしなかったそうです。そして秘かに書き溜めていたのが本著で、著者の没後に息子がこの手記の存在に気が付き出版に至ったそうです。その本も、その後40年間近くうもれていたのをこれを読んだ人が、復刊したいという運動をしこの本となりました。
 今回も自費出版なので、本著に興味のある人は以下URLに問合せ先があります。
http://www.toukou-t.com/recomm/tsutaeru/fukkoku.htm
(★★★★)

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私のパソコン履歴書~3代目DynaBook~パソ通で世界が広がる!

Ss02e3代目>>>PCデータ
機種名:東芝 DynaBook SS02E
使用期間:1990~1992
イメージキャラ:鈴木 亜久里
購入価格:79800円
OS:DOSV
CPU:i80C86 9.54MHz
メモリ:1.5MB
HD:20MB
備考:A4ノート

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 高校を卒業し1年浪人して大学に入学しました。大学1年のときは、校舎が習志野で通学時間も長かったので私のパソコンライフに変化は無かったのですが、大学2年となり御茶ノ水に移動。秋葉原は学校の徒歩圏だったので、暇があればアキバをフラフラ。この当時のアキバというのは今と違い、 電気製品とパソコンの町で女の子もアニオタもいない問屋街っぽいところでした。パソオタは1日フラフラしていても飽きません。
 そろそろFM-77AVに物足りなさを感じていた私は、型落ちの安い掘り出し物があれば買おうと思い、よくアキバをうろついていました。そんなある日のことです。何号店か忘れましたが裏道の方にあったソフマップの前に各種DynaBookが山積みで売っていました。この光景自体はアキバでは特に珍しいことではないのですが、その山の1つに掘り出し物を発見したのです。DynaBook SS02E という20MBのハードディスク搭載モデルがなななんと¥79800!
 DynaBookを最近の人はご存知ないでしょうが、ノートパソコンというジャンルをつくったエポックメイキングな一台です。初代DynaBookはハードディスクは搭載していませんでしたが、定価\198000という低価格で当時としては驚きの小ささのパソコンでした。F-1レーサーの鈴木 亜久里がDynaBookを小脇に抱えて歩くCMが非常に印象的でした。まだまだNEC全盛の時代でしたが、そこに風穴を空けたのがこのDynaBookです。NECもこの後すぐに98ノートという物真似パソコンをつくりましたが、98シリーズ衰退の流れはここから始まったと言って良いかもしれません。
 J-3100 SS02Eは初代ラインナップの1台だったのですが、当時は高価だったハードディスクを搭載していたため定価は40万円ぐらいする上位機種。学生の手に入るものではありませんでした。発売からしばらく経っていたとはいえ、それが\79800!5分程度買おうかどうしようか迷ったのですが、こんな掘り出し物は二度とないという結論に達し、郵便局へ駆け込み現金を下ろしてソフマップに戻り購入したのでした。このパソコンは、今振り返って見ても私のパソコンライフの中で最高の掘り出し物です。
 20MBなんて、今で言えば鼻くそみたいな容量ですが当時は無限の可能性を感じたものです。購入してみてわかったのですが、DynaBookはFM-77AVとは別種のパソコンでした。なんと言っても持ち運べる!自分の部屋でもリビングでもそして屋外にも持っていきました。機動性を増すために別売りの小型のACアダプタも買いました。青白液晶なので、絵を描いたりという用途には全く向かないパソコンでしたが、ビジネス・実用系のソフトが充実していて、表計算ソフトのアシストカルクやアシストワードなどを購入。このとき、表計算ソフトというものをはじめていじったのですが、そのあまりの便利さに、計算のためにプログラムなんか組む必要ないんじゃないか、と思ったものです。またDynaBookはDOSVパソコンの走りでもありました。まだまだNECの牙城は巨大でしたが、DOSVのDynaBookが出ることにより非NEC連合が結集していったのです。そして私にとって革命的だったのが、パソコン通信とこのパソコンを通じて出会ったことです。
 パソコン通信というキーワードは当時よく目にはしていたのですが、それがいったい何のことだか私には正直イメージできていませんでした。雑誌やムックなどを購入し研究。パソ通会社と契約してモデムを買って電話線につないでパソコン使って電話すると、いろんな情報や”おんらいんソフト”や”ふりーソフト”が"だうんろーど"できるようだ(当時の私はオンラインやダウンロードの意味がわからなかったのでひらがなで書きました(^^;)。このころ、2400bpsのAIWAモデムが1万円の値段を切るぐらいになっていました。よし、私もパソ通というものをやってみよう!まずはパソ通会社選び。NEC系のPC-VAN、日商岩井系のNifty-Serve、そしてアスキーネットが3大ネットと呼ばれ、草の根BBSというのも各地にありました。私が選んだのは現在もプロバイダとして使っているNifty。通信ソフトは本と同梱で売っていたW-TERMを使用。
 電子メールというのもパソ通につないでみてはじめて知りました。と言っても付近の知り合いは誰もパソ通なんてしていないので、当初は送る相手はいませんでした(^^;; niftyの担当者から、”niftyへようこそ”というメールが届いただけで感動したものです。
 パソ通の世界では情報のやりとりは、機種間で互換性のあるテキストデータで行われていました。テキストデータは易々とメーカーの壁を越えていたのです。今やこれは普通のことですが、当時は他のメーカーのパソコンでデータを読ませるには変換ツールが必要、というのが常識でしたから機種など関係なく情報をやりとりするパソ通の世界は私にとってカルチャーショックでした。

 ニフティのパソコン通信にはフォーラムと言ってテーマ毎の掲示板がありました。私のその当時の趣味は野球(マリーンズ)、競馬、映画、本、音楽(ジャズ・フュージョン系)などがありました。どれもそれに対応するフォーラムはあったのですが、書き込み(発言)の多いとこと少ないところがはっきりしていました。盛り上がっているのは野球と競馬のフォーラム。何故かと言えば、試合やレースが常にあるからで同じ話題で盛り上がれるのです。一方、映画や本、音楽というのは同じ話題では盛り上がれず分散してしまうものなのか閑散としていました。
 ロッテは千葉に移転して千葉ロッテとなっていましたが、知人にも付近にも全くロッテファンというものは存在しなかったので、私は孤高のロッテファンだったわけです。ところがパソ通覗いたらいっぱいいるじゃないですか!競馬についてもギャンブル面としてより、血統やレース分析などマニアックな談義をしている人たちがたくさんいました。私は一口馬主(シチー)をはじめていたのですが、一口をやってる人もたくさんいてマニアックな話が合う人がこんなにいる!と驚いたものです。かくして、私は毎日ニフティにW-TERMを使いダイヤルアップでつなぎ、見たい情報をダウンロード、いつしか自分も発言したり馬の画像をアップロードするようになっていったのです。

 ここでW-TERMについて少し解説します。W-TERMとはnifty用につくられた巡回ソフトです。オフラインの状態で、巡回する掲示板を選んでおくと、自動でダウンロードし回線を切るところまでやってくれます。つまり、最も短い接続時間で欲しい情報をとってこれるソフトなのです。パソコン通信に電話線でつなぐと、まず電話代がかかります(3分10円)。そして、パソ通会社は1分いくらという単位で接続料金もとったのです。W-TERMのような巡回ソフトを使わなくとも手動でコマンドを打ち込みながら巡回することもできたのですが、そうしたらいったいいくらかかるかわかりません。チャットにはまって何万円もパソ通に使っているという人もいると聞きましたっけ。このW-TERMはフリーソフトでした。他にもニフティ上には様々なフリーソフトやフリー画像がありました。ファイルがでかいとダウンロードに時間はかかりましたがこれもパソ通の大きな魅力だったわけです。
 一方でゲームソフトへ対する私の興味は急速に失われていきました。ゲーム自体に飽きたというのもありますが、パソ通から伝わるリアルの世界やバーチャルな世界でのやりとりの方がゲームに比べてはるかに面白かったからです。

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コラムyokoze「トヨタ絶望奴隷工場」

 今回の秋葉原事件ですが、あまりにも分りやすすぎる構図。ちょっと整理してみましょう。
 加藤さんは、トヨタ系下請けの自動車組立工場 関東自動車工業で塗装工程を担当していました。関東自動車工業はホームページを見てもわかるようにトヨタ系列であることを売りにしています。
 昼夜勤の厳しい労働環境だというのには加藤さんは20万円程度しかもらっていなかった。生きるためには問題ない額でしょうが、いつクビになるともわからない派遣労働。休めばすぐにクビになるので、休日以外は会社に縛り付けられる奴隷のような生活。
 その昔、鎌田慧さんが自動車絶望工場というトヨタの期間工の話を書いたが、どうやら加藤さんの希望はこの期間工の方だったようだ。なぜなら期間工の方がまだ安定していて、収入もよいからだ。かつては最低辺だった期間工の更に下の階層に加藤さんは属していたのだ。

 そんな折、関東自動車で今月末に200人の派遣労働者を50人に減らすという発表がされた。日本では不景気やガソリン高を反映し車が売れなくなっていたが、なんとこの関東自動車の昨年度決算は増収増益でしかも過去最高だった。けれど、もうかっているのに奴隷には還元どころかクビなのだ。奴隷は会社の利益のための調整弁にしか過ぎないということなのだろう。
 加藤さんは昨年11月からこの工場で働いていたが、今月いっぱい契約が切れると言い渡された。つまり彼もクビ要員だったのだ(会社は今になって否定しているが)。そこで彼は延長して欲しいという交渉をしたようだが、その直後に彼の作業着はなくなっていた。ゴミのような仕事だが加藤さんは欠勤もせずにまじめに働く良い奴隷だった。なのに、なんで俺の作業着を取り上げるんだ。やめろってことか!もう知るもんか!ということで彼は会社を飛び出した。
 この作業着が消えた件はこの事件で重要な意味を持っています。加藤さんが見落としたか、会社の誰かが隠したか。欠勤もせずに堅実に毎日出勤するような彼ですから、見落としたりしまい忘れたなんてことは恐らくないでしょう。つまりこれは、同僚もしくは会社ぐるみのいじめなわけです。
 工場から飛び出した彼はもう戻るつもりは無かった。どうにでもなれ!けれど、生きなければならない。そのためにはまた新たな奴隷先を見つけなければならない。もうこんなことにはうんざりだ。俺は生きてても意味がない。どうすればいいだろう。そうだ戦争だ!俺にとっての戦争をするんだ!というわけで彼は武器を調達し、戦場へ向かった。彼の戦場は何故か秋葉原だった。ゲームやアニメが好きだった彼の聖地であり、オアシスの秋葉原だ。秋葉原のホコ天で散ってやろう!彼はそう思ったに違いない...。
 加藤さんの場合は一人暮らしで居住地域とのつながりも無かったためアキバへと玉砕の地を求めたようである。しかし、本人の性格と環境により玉砕の地は変わってくる。一番よくあるケースは一人玉砕の自殺である。もちろんすべてが奴隷労働の結果ではないが、自殺は年間3万人もいる。次に多いのは家族への玉砕。次は居住地域や出身学校などへの玉砕。
 ちなみに加藤さんも自殺を試みて失敗している。一見無差別通り魔に見えるが、一人玉砕ができなかった彼の代替玉砕手段が今回の事件だったわけだ。つまり年間3万人も自殺がでるような社会では、今回のような事件が時々起こるということになる。

 今のところ不思議なことに彼らを追い込むシステムを管理・設計している会社や、政治への玉砕を試みるのはかなり稀なケースだ。なぜなら、今のところマスゴミや会社システムが上手に機能して奴隷たちが真の問題に気がついていないからだ。けれど、早晩に誰かが決行することだろう。そうして彼らは気がつく。自分たちを追い込んでいるのが誰かということに。
 今回の事件もマスゴミは”個人の問題”として片付けようとしている。しかし、この事件の原因の1つは固定化している格差社会の問題である。加藤さんは高校では成績優秀だったが、早く社会に出たくて専門学校に行ってしまった。これが選択の誤りで、この結果奴隷階層に落ちてしまった。現在の日本では一度奴隷階層に落ちてしまうとそこからはもう這い上がれない。少ない収入で厳しい労働。会社の都合でいつでもクビを切られる奴隷階層。一度奴隷になった人を会社は正社員として雇わない。
 もう一つはこの武器の問題だ。今回は7人もの人が亡くなってしまったが、彼は殺人用のナイフを調達していた。普通の包丁ならこんなに死んではいないはずだ。先日米国でも32人が米国の大学で殺された事件があったが、あれも殺傷能力の高い拳銃が使われたことによる。人殺し用の道具は売るべきではないのだ。

 アキバのホコテンは今週から中止となるようだ。そしてダガーナイフも発売禁止となりそう。今回の事件は加藤さん本人と、ホコテン、ダガーナイフの責任ということで終わりそうな雰囲気になってきた。一番の問題である奴隷労働はなにも手をつけられずそのままだ......。

○関東自動車3月期決算…増収増益 売上11.5%増の純利益26.5%増
http://response.jp/issue/2008/0430/article108796_1.html

○関東自動車
http://www.kanto-aw.co.jp/

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新最近みた映画(96)

【隣のリッチマン】 バリー・レヴィンソン
 ベン・スティラー、ジャック・ブラック、レイチェル・ワイズ、クリストファー・ウォーケン。2004年製作の日本未公開作。家が隣同士で職場も同じティム(スティラー)とニック(ブラック)は仲の良い隣人だったのだが、ニックがペットのフンを消すスプレー(VapooRize)を開発し、一躍富豪となってしまう。ニックはそのまま同じ土地に豪邸を建て、ティムのこともいろいろ気遣ってくれるのだが....というコメディ。ワイズがスティラーの妻役で、ウォーケンはスティラーをそそのかす、怪しいオヤジという役どころ。
 豪華キャストですが、まあ並作で普通に楽しめます。ただし、犬のフンで大金持ちというおかしみだけで、やや風刺が足りないところ本作が物足りない原因かな。それぞれの役者はいつものように良い味は出してます。しかし、レインマンのバリー・レヴィンソンはこの程度の映画で満足してるのかな(^^;?
(★★★☆)

【ピーター・パン2/ネバーランドの秘密】 ロビン・バッド
 1953年につくられたピーターパンの続編として2002年に製作された映画。第二次大戦下のロンドン。母となったウェンディは子どもたちにピーター・パンの話をしてやるが、長女のジェーンはその話を信じてくれない。戦火は激しくなり、お父さんは戦争へ行くこととなる。そんなある日、ジェーンはフック船長にウェンディと間違えられネバーランドへと連れ去られる。
 50年ぶりの続編ですが、それほど違和感なく見れました。ストーリーは前作の焼き直しみたいで、特筆することはないのですが、前作ではネバーランドの一員として活躍していたインディアンたちが本作では全く出てきません。フック船長に滅ぼされてしまったのでしょうか(^^; やはり現代ではあのデフォルメインディアンは書けないのでしょうが、タイガーリリーぐらいは出しても良かったんでは(^^;?
 本作で印象に残ったのはピーターパンが母となったウェンディを見て、”君変わったね”と言い、ウェンディが”変わってないわ”と応えるシーン。少年の心を失わないピーターパンは正直なのです(^^;;
 さて、2がこれではもう続編はつくれないでしょうね。イラク戦争下でウェンディのひ孫でも登場させますか(^^;;?
(★★☆)

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私のパソコン履歴書~2代目FM-77AV~これが本物のパソコンだ

77_av2代目>>>PCデータ
機種名:富士通 FM-77AV
使用期間:1986~1990
イメージキャラ:後に南野洋子
購入価格:148000円
OS:F-BASIC V3.3
CPU:MBL68B09E*2 2MHz
メモリ:128KB
HD:なし
備考:デスクトップ

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 MSXを買って約2年。私にも高校受験の季節が近づき、高校に合格したら両親がご褒美に何か買ってくれることになりました。そろそろ私もMSXに物足りなさを感じはじめていたころで、新しいパソコンを買ってもらうことに。で、受験の方は希望の高校に合格しました。
 購入機種については、まだ決めてはいなかったのですが受験前からカタログをもらってきて研究。当時はまだまだNECの天下でしたが、与党のNECだけは買うのをやめようと心に誓っていました(^^; というわけで、sharpのX-1か富士通のFM77-AVで迷ったのですが、コンピュータグラフィックス(CG)に興味があったので、4096色という当時としては脅威の色数だったFM-77AVに決めました。近所のデパート・スーパーなどでもパソコンは扱っているところもあったのですが、やはりパソコンは秋葉原!ということで父と一緒に秋葉原まで出かけ、何軒かまわった上でサトー無線あたりで購入したのを覚えています。値段的には確かに近所で買うよりは2万円ぐらい安かったです。
 パソコン購入とほぼ同時にお絵かきのグラフィックソフトとマウスを立川にあったジョーシン電気で購入。少し遅れてあとから、ビデオ画像の静止画をパソコンに取り込むための拡張ボードのビデオデジタイズカードを購入しました。これが私CGとの出会いとなったわけですが、このときにCGの基礎をツールをいじりながらマスターしていました。この経験が後々、仕事やホームページ作成などにも役立ったのです。
 また、このパソコンには漢字ROMを内蔵していたので、ワープロにも使える!というわけでワープロソフト(ツール名忘れた)をこれは値段が高いので購入しないで(^^;ソフトレンタル屋で借りてコピりました。カセットテープのソフトならダブルラジカセでダビングすれば、それでコピれますが、フロッピーのソフトはたいていコピーガードがかかっているので、単純にコピーしただけではコピレません。このコピーガードを外すソフト(京都メディアというソフトメーカーなどが確かつくっていた)というのがあり、それとあわせてレンタルしコピルのです。
 当時は、まだパソコンというものは一般的ではないので、ソフトのコピーが行われていても社会問題とまではなりませんでした。ビデオレンタル屋のように、ソフトレンタルをしている店が数は少ないけどあったのです。ソフトレンタル店はたいてい裏道の薄暗いところにあり、知らなければ店があることにも気がつきません。店内は薄暗くアングラ的なノリで、悪いことをしてる店という雰囲気が漂っていました(^^;; 私の自宅の近所では立川に一軒(FOR NEXT)、久米川に一軒(ランボー)ありました。レンタル日帰りがやはり安いので、久米川まで無理して自転車で往復したことも何度かありましたっけ。
 この当時のPCは5インチのフロッピーが主流でしたが、FM-77AVは3.5インチのフロッピーを使っていました。このころの3.5インチはブランド品だと1枚1500円!ぐらいしていました。ノーブランドならその半額ぐらいでしたが、壊れることが多くけっこうフロッピーには泣かされました。というわけで程度の良い、ノーブランドのフロッピーを探しました。立川の日本ファルコムで売ってるのが程度が良く、これを購入しておきいろんなソフトをコピーしたものです。
 ワープロがあれば印刷もするので、スター精密の熱転写プリンタも後に購入しました。この頃はインクジェットプリンタというものは存在せず、熱転写かインパクトドットか、プロッタが個人が購入できるプリンタでした。このうち、カラーの印刷がまがりなりにもできるのが熱転写だったのですが、カラーインクリボンはランニングコストが高く、ケチケチ使ったのものでした。
 ワープロはこの当時は専用機が主流でした。我が家でもシャープ書院を使っていましたが、パソコンのワープロの方が数段使いやすいツールでした。レポートはこのワープロソフト使って書いていたのですが、提出したらあるとき研究室の助手の人がこう言いました。「将来のためになるんだからレポートは手で書かなきゃだめだよ!」。言われても私は無視してワープロレポートを出し続けましたが(やな学生(^^;;)、今やレポートを手書きする人はどこにもいませんね。
 ゲームもこの当時はけっこうやりました。RPGは一応やりましたがあまり肌にあわず、システムソフトの大戦略をよくやっていました。しかしマップが複雑になると、敵の考える時間が異常に長くなり1ターン戻ってくるのに1時間とかかかっていました(^^;; 悠長な時代だったね。
 ちなみに77AVのモニタは専用モニタでしたがTVチューナーも積んでいたので、TVだけは使い続けて2000年に壊れました。
 参考までにこの2年後に弟も高校生となり、SharpのX-1 turboⅢを入学祝いで買ってもらっていました。

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私のパソコン履歴書~1代目MSX~パソコンとの出会い

 連載の第一弾から随分間が空いてしまい(なんと2年近く(^^;)ましたが、続けて書きますのでよろぴく。

Hb75_21代目>>>PCデータ
機種名:SONY HB-75
使用期間:1984~1986
イメージキャラ:松田聖子
購入価格:64800円
OS:MSX
CPU:Z80A 3.5MHz
メモリ:64KB
HD:なし
備考:キーボード一体型デスクトップ

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 私がはじめてPCを購入したのは中ニ(1984)のとき。当時は第一次パソコンブームと言っても良い時代で、パソコンと言えばNECのPC-8001 PC-6001 などのことを指していました。当時のパソコンは今と比べればオモチャのようなもの。仕事で使っていた人もあるでしょうが、パソコンをいじりたいからパソコンを買う人がほとんどでした。電気工作のラジオ少年の発展系みたいなものです。
 各メーカー毎で異なるOSを使っていて、それぞれで様式が異なりました。マウスは存在せず、すべてキーボードからのコマンドライン。主に使われていたプログラム言語はメーカー毎に方言があり互換性のないBASICで、パソコン少年達はこれを使ってゲームなどをつくったり、雑誌に掲載されているプログラムを入力したりして楽しんでいました。記憶媒体としてフロッピーディスクもありましたが主流はカセットテープ。今のパソコン使ってる人には想像もつかない世界でしょう(^^;

 私に転機が訪れたのは中ニのとき。世の中のパソコンブームを反映してか、私の通う中学にもマイコン部というのが設立されました。マイコンという言葉は今では死語となりましたが、当時はマイクロコンピュータを略してマイコンと呼びパソコンのことも指していました。また今は無くなりましたが月刊マイコンという電話帳のような雑誌があり、これはパソコン少年達の愛読書でもありました。
 そのマイコン部に私も入ったのですが、たいへんな人気の部で定員いっぱいとなっていました。顧問の先生が自宅から自分のPC8801をクラブの時間のたびに運び込み、子ども達は目を輝かしながらそのパソコンで組まれたプログラムが動くのを見ていました。パソコンは1台しかないので、生徒たちの一部はポケコンを持ち込んでそれでプログラムを組んでいました。ポケコンというのはポケットコンピュータの略で、電卓のおばけみたいなもの。BASICが動き値段は1万数千円という価格でカシオやシャープから発売されていました。このクラブでポケコンを購入することは義務ではなかったのですが、持っていないと他人のポケコンを見るか先生のパソコンを見るかしかありませんでした。そんなわけで私もポケコンが欲しくなったのです。親にそのことを話したところありがたいことに”どうせならパソコンを買ってあげる”となったのです!

 既にひねくれものだった私は(^^; メジャーなNECのPCは買いたくないと思っていました。雑誌を購入しPC売場に通い、どれを買うかいろいろ比較して結局決めたのはSONYのMSXパソコン。HB-75というPCでした。値段は正確に覚えていませんが64800円ぐらい。MSXというのは当時は1ソフト会社だったマイクロソフト(マイクロソフトが今のように巨大独占になったのはwindowsを発売してから)が開発した誕生したばかりの共通OS。当時はメーカー毎に異なるOSが使われているのが普通でしたがその垣根をとりはらう画期的なものでした。家電メーカーを中心に多数のメーカーが対応機種を発売しはじめていて、値段的にもNEC、富士通などのパソコンよりかなり安いものでした。
 このSONYのMSX PC 愛称HitBitはSONYも売る気があったようでイメージキャラに松田聖子を使い、”ひーとびとーのHitBit”という歌を聖子ちゃんに歌わせてTVスポットを流していました。ちなみに同時期に富士通はパソピアシリーズで横山やすしと息子の木村一八(暴力問題を起こす前(^^;)をイメージキャラに使ってました。

 MSXが発売されたほぼ同じ時期に任天堂があのファミコンを発売していました。私はゲームが目的では無かったので眼中にありませんでしたが、ゲームがしたい同級生たちはファミコンを購入していたようです。
 MSXの記憶媒体としてはファミコンのカートリッジのようなRAMカートリッジとカセットテープが使われていました。ハードディスクは存在していたのでしょうが、一般人が買うようなものではなく、当時は私もその存在すら知りませんでした。
 このMSXを使って私が何をしていたかと言えば1つは、当初の目的のBASICによるプログラミング。参考書や雑誌を何冊も買い、パソコンをいじっていました。しかし、この当時のパソコンの性能はいろんな限界がありました。色は16色程度で、ドットは荒く、漢字は出力されません。複雑な計算とか、グラフとか、簡単なツールみたいなものはつくれましたが、そんなに実用的なものはつくれません。パソコンの勉強をするためのパソコンみたいなものです。
 そして、もう一つの用途はやはりゲーム。当時ゲームはやはり5000円ぐらいしてましたので、そう買えるものではありませんでしたが、ゲーセンが我が家にやってきたようで興奮したものです。しかし、MSXのゲームはゲーム専用機のファミコンや、NECなどの上位機種のパソコンに比べればかなり劣るもので、ゲームが目的で無かったとはいえなんか悔しい思いをしたのを覚えています。とにかく、この当時は寝ても覚めてもパソコンでした。振り返ってみれば、これが今の職業(SE)に結びついてきているんですよね。

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コラムyokoze「キムタクのCHANGE」

 キムタクが総理になるというドラマ「CHANGE」がフジテレビで放映中だ。私も選挙オタクなので!?2回目から見ています。見てない人のためにあらすじをちょっと書きます。
 与党議員だった父の弔い選挙で学校の先生をしていたキムタク35才が出馬し当選。政界ではその直後に総理がスキャンダルで辞任。与党支持率が低下する中、イメージ回復のために若いキムタクを一時的総理にし、窮地を脱そうと与党の重鎮たちは画策。

 今日の放送で、キムタクは世論の後押し(与党の総裁選だけど(^^;)というカタチで総理になるんでしょう。その後の展開はどうなるんでしょうか。私の予想ではおそらく次のような”ストーリーA”の展開となるでしょう(^^;

<ストーリーA>
 キムタクは総理になるが、重鎮たちに足を引っ張られなかなか思うように政策をすすめられない。彼のすすめる政策課題はあたりさわりのない温暖化や環境の問題。それも実効性のないような漠然とした政策。格差問題や年金問題、官僚問題などに踏み込むことはない。
 世論の後押しを受けながら漠然とした政策を進めるようと奮闘しているうちに重鎮悪者政治家たちからはスキャンダルが噴出。彼らは自爆するかのように失脚していく。抵抗勢力はいなくなり、彼の掲げた漠然とした政治課題は前進したように見える。めでたしめでたし。
 適当にラブストーリーがちりばめられ、中だるみを盛り上げる。
 野党や無所属の政治家は全く登場せずして最終回を迎える。視聴者は悪者政治家が駆逐され、若い新しい政治家が実権を握ったことで満足する。コップの中の争いだというのに「CHANGE」したかのような錯覚を覚える。


 次に、私ならこういう脚本を書くよ、というストーリーB(^^;

<ストーリーB>
 キムタクは総理になるが、重鎮たちに足を引っ張られなかなか思うように政策をすすめられない。彼のすすめる政策課題は原発廃止や、年金問題、格差是正や官僚問題など庶民感覚を生かして、今まで与党議員では手のつけられなかった問題ばかり。いよいよ彼は与党での居場所がなくなり、総理を辞任。無所属として下野する。
 下野したキムタクの志に共感する野党議員、無所属議員、与党の中からも中村敦夫など与党に見切りをつけた議員が結集し新党が立ち上げられる。一方の与党は新しい重鎮総理を選出しているが、支持率は超低空飛行。そしてまたまた与党からスキャンダルが飛び出し、ついに解散総選挙となる。
 選挙ではキムタクを党首とする新党が「CHANGE」を合言葉に大躍進し、与党は惨敗する。キムタク新党が第一党となりキムタクが再び総理として選出される”CHANGEをみんなでつくろう!”キムタクが国民に呼びかけ最終回。

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